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永井均はニーチェの本書いているけど、それは倫理学的洞察の媒介にはなっているだろうけど、あまりニーチェっぽいというかんじはしない。

永井均の議論の構成は仮/実をけっこう区分する思考の癖があるようにおもわれ、「偽の◯◯」があるということをやるからで、それは方法的懐疑のようなものに見える。山括弧の〈私〉もこの方法的懐疑を支えるものとしてあるようにしか見えないのだけど、それはふつうにデカルトでは?というのがある
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永井哲学のデカルト主義的な議論の構成と、彼がトランスジェンダー問題に関心を持つのは整合性がある。自分が永井哲学的な発想のなかで気になっているのはこういう↓点で、「真の」なにかを仮定することで、人間の常識的な生を「仮の」ものにしていないか。これはちょうどデカルトが真の基礎をもった道徳がわかるまでは仮の道徳に従うとしたのと対応しているようには見える。
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