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エスニシティって、他者と区別される集団への帰属意識のことを指すようにおもうのだけど、それが日常語としては「なんとか民族」「なんとか人」みたいな用法として客体化される。そこまではいいとして、じゃあその自己の帰属意識が要求する社会集団のことを「なんとか民族」と呼んで実体的な実在物であるかのように考えるのは、かつての「人種」という概念とあまり変わらないのではないか、ということを考えている。

で、そういうことを言うのはおまえがヤマトだからだろって言われたら、そうかもしれないんだけど、よくわからない。

ていうかある社会集団への帰属意識って変わるのでは?帰化したら何民族になるの?というのがひっかかってしまう。エスニシティという言葉のほうがこのへん上手く処理できる印象があるけど、「民族」という日本語がたぶん自己認識の問題であるより実在的な社会集団を意味するままになっているからなのかもしれない。これは20世紀的な意味(国民国家的な意味)なんじゃないか。

『この国の芸術』の「〈日本美術史〉の脱中心化」を読んでそんなことを考えているんだけど、この論考では「人種」は概念として否定しているが「民族」については疑問なく使っていて、エスニシティという現象ではなく「民族」という語をほぼ実体化された社会集団として使っているように見え、けっこうモヤモヤする。人種は否定された概念だと冒頭で述べているのに、「縄文時代の人々がアイヌの人々の祖先と直接的な関係を示すことは既に認められ、そのDNAを最も多く受け継いでいるのは現代のアイヌの人々であり、本土日本人ではない。」とやっていて、これは人種概念そのものじゃないの。

このツッコミはあとにするか...。

こういうのはほんとうに意味ある概念なのかな...
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB

そもそも起源を同定しようとする欲望がわからない。

人類学者が科学の名において渡来人ルーツと土着ルーツを遺伝的分析で分けようとするのは、語られざる歴史を解明していくという意味では重要な面があるにせよ、危険な発想にしか見えない

この分析によって、ある民族の存在は遺伝的な根拠を獲得してしまうことになるのでは?「アイヌの遺伝的特性」は云々ということになって、それはまさに民族を根拠づけるものとしての人種という発想であって、民族の「本質」を語ることが許されてしまうことになるんじゃないの?それで「日本美術史の脱中心化」を言う論考がこういうことを論拠にするのはまじでいいの?
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わかりやすく説得的であり、かつ一見PC的にも正しく見えてしまい、それだけに危険を感じている。

ていうか「脱中心化」なのに中央集権国家の成立についての記述がほとんどないのもどうなのよ。「日本美術史」を語ることは中央集権国家の権力作用そのもので、単純な虚構などではありえない。

「〈日本美術史〉の脱中心化」はまだましで、同書から他のを一つ読んだがたいへんひどかった。述語が適当すぎて読むに堪えない....。