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わかるofわかるだった

>わりとおれの根本的な関心は「なにが音から区別されて音楽になりうるのか/なにが日常的な言葉から区別されて詩・詞になるのか」というところで一貫していて、(...)この関心の根っこは実はグリーンバーグやフリード(芸術と客体性)を読んだことから来ていて

https://sizu.me/imdkm/posts/7wtvnwm17b8b

「モノがリテラルにそのものであることを超えているような状態」みたいな問題って、フリードを読むことによって与えられた問題であるのか、それとも、自分たちの時代や社会に固有の問題として取り出すことができるのかがよくわからない
フリードは、モノがリテラルにそのものである状態をリテラリズムと呼んで、それは感性の堕落であり、われわれは皆リテラリストなのだと言った、それはそれなりに時代状況に裏打ちされた批評だったけど、それはいまの自分たちの状況でも繰り返してよい問題設定の立て方なのか、どうなんだろう
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自分がフリードについて再考を促されたのは、プログラミングのオブジェクト指向について考えていたときのことで、オブジェクトって関係のなかで、あるオブジェクトになるのであって、「それ自体」としてのオブジェクトというものはない(もともと、プログラムのうえに仮構された概念である)
具体論ないとわかりづらいだろうけど、書物にかんするソフトウェアをつくるとして、「本」というオブジェクトを定義するとしても、「本」という概念を内在的に定義することはできない。作られるソフトウェアが本棚に一覧されて、レビューやメモを投稿するアプリであれば、「本」というオブジェクトが抱えるのは背表紙とかメタデータとかであって、本の内容は不要。これが読書アプリであれば本のコンテンツそのものが必要になる。いずれにせよ、「本」はそのコンテキストが与えられなければ必要な情報を定義できないから、「内在的に」定義することはできない。
こういう文脈で参照されるのは、どうやらホワイトヘッドとからしいのだけど、ホワイトヘッドをまったく読んだことがない。かわりに自分はフリードとドナルド・ジャッドの観念の対立とかがなぜか参照項になるのだった。

ちょっと変な読み方すれば、芸術が芸術である状態を達成すること(あきらかにモノではない状態になること)とは、モノの相互作用によって秩序を生成する創発でもあるようにおもわれる。創発は、オブジェクト指向を提案したアラン・ケイがおそらく意識していたものとおもわれ(後付けかもしれないが)、モノがモノである状態というのは秩序を欠いた状態である。
これはフリードの視野に入っていなかった概念だとおもうけど、フリードの思考は創発特性についての記述であるとも振り返ることができるとあとから思っている。彼がカロの作品を賞賛するのは、その特性が鉄鋼だの台座だのといったモノのなかに内在するものではなく、それらの相互作用によって成立する秩序があるからだ。その秩序こそ、カロの配置するモノをモノではなくするものである。フリードはそれを「言語」だと言おうとしたけど、それはやっぱり創発という文脈で言われる秩序と近いとおもう。