「科学的事実」とはなにかみたいな話のほうが重要な気はするかな。
事実は、事実を事実として特定するフレームがあってはじめて事実になるので、社会構築主義が議論したのはその事実を形成するフレームだとおもう。ソーカルとドーキンスの枠組みはたんに社会構築主義へのキャンセルで、科学への社会構築主義の持ち込みを否定しているけど、もちろん実質的にはそれ以上の効果をあげることが意図されている。とくに「世界中で、殺人の大多数は男性によるものです。女性は男性よりもはるかにシングル・ペアレントになる可能性が高いです。」とかの記述は、それ生物学的に議論することではないでしょ以外の感想がなく、こういうことも男女性差という「科学的事実」から導きだせるとするのは越権でしかない。
事実は、事実を事実として特定するフレームがあってはじめて事実になるので、社会構築主義が議論したのはその事実を形成するフレームだとおもう。ソーカルとドーキンスの枠組みはたんに社会構築主義へのキャンセルで、科学への社会構築主義の持ち込みを否定しているけど、もちろん実質的にはそれ以上の効果をあげることが意図されている。とくに「世界中で、殺人の大多数は男性によるものです。女性は男性よりもはるかにシングル・ペアレントになる可能性が高いです。」とかの記述は、それ生物学的に議論することではないでしょ以外の感想がなく、こういうことも男女性差という「科学的事実」から導きだせるとするのは越権でしかない。
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