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最近は、いろいろあって自治とかアジールについて考えていた。
網野善彦の歴史観では、中世に「公界」と呼ばれた場所が一種の治外法権的な場所であり、また俗世権力も手を出しづらい場所としてあった。権力側としてはやはり囲い込みたいわけで、その自治領的な性格と対立しているというのは網野的な世界観で、ただ、それがたぶん刀狩で自治領は権力の配下に置かれることになる。
インターネットも網野の言う「公界」みたいな性格があると思うけど、自治を手放してしまう。まあ、サーバーの管理めんどくさいからね。
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グリーンバーグは、芸術の自律性のなかにアジール的性格を読みとっていたけど、もともと左翼の闘士だった彼にとっては、想像力のなかに自治領を設置することにしたわけで、政治過程から離脱することだった。グリーンバーグがいかに批判されようと、現代の芸術はほとんどの場合この想像力に閉じ込められたアジールでしかない。

去年岡崎さんの彫刻が撤去されそうということが話題になったが、これも地続きの問題で、あの作品自体が囲われたフェンスを人間が到達できないアジールとして想定していた。砂川闘争というまさに自治を巡る争いを参照しつつ、それが現代においてはフェンスを挟んで立ち入りできない聖域に置かれてしまったわけだ。実際の土地の持ち主からすれば、そのアジールは想像的なものであって実在ではないから、撤去の判断は容易だった。

岡崎さんの失敗は、あの作品を維持するための自治的な構造をつくろうとして結果失敗したことにある。