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「風景論以降」で今井祝雄の信号を撮影した映像がおもしろかったんだけど、「信号を待つ」映像を立ってじっと見るしかないのだが、「信号を待つ」ことも「美術館で立って映像を見る」ことも、すでに空間を規制する制度を内面化している。そのうえ信号が青になってみても、わたしたちは向こうに渡ることができない(=イメージから疎外されている)。

この信号の映像について話していて、ランニングしていたときに歩道ではなく車道の端を走っていたら後ろから来た自転車に「歩道走れよばかやろー」とか言われてむかついたことをおもいだした。「道」は「歩道」や「車道」に分割されているが、いったいなにによって分割されるのだろうか。法の定めもあるわけだが、人工物のデザインによって、法の内面化が進行する。路側帯なんてものがない道なんていまだにいくらでもある。空間に対する内面化された規制は、倫理として受けとられる。
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