すごいどうでもいいことが気になっていて、『外套』の九等官は書類の文字を清書する仕事で、いわゆるクリエイティビティがぜんぜんない仕事で、活字とかワープロとかによってもうこの職じたいが存在しないとおもうんだけど、この九等官が清書だけして仕事になる世界が維持されるいいのか、それともこの九等官は技術の変化にともなって自らの技能を変化させるべきなんだろうか。
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ドストエフスキーの『貧しき人々』はこの『外套』がモデルになっていて、貧乏な下級官吏かなにかが同じアパートの少女に手紙を書きつづける。このあわれな主人公は、『外套』の九等官氏に共感しながら、「文学者」的な自意識をもちはじめる。ここでは「書く」という行為が、清書のような固定的内容で創作性のないものから、「文学的な」内容を獲得するものとして表現されている(かなしいことにそれは文学のパロディなのだが)。文学者というものこそ、まさに活字のうえにしか成り立たない職業であって、清書を仕事とする九等官の職能とちょうど対立しているものである。文字の清書のような身体的技能が「機械に代替可能である」と見做されるようになるときに、知性や創造性の象徴として「文学」という職業が成立する。