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歴史画論争、追いかけるのめんどくさいなこれ

明治30年代初頭に高山樗牛、坪内逍遥、綱島梁川らによって展開された歴史画論争、主観客観論争だろうなと予想していたけどその通りで、端的に言えば、美は題材のほうに宿るか(美の客観説)、絵画そのものもしくは主観に宿るか(美の主観説)ということになる。ざっくりとはそうなのだが、高山説の「絵画そのものもしくは主観に宿る」が、レッシングを根拠にメディウムスペシフィックな議論を展開しており、「絵画そのものの美」というのがイコール「主観的な美」であるとは言えない。批判者である坪内はシェイクスピアのなかにまったく「主観的な美」を認めない(没理想)から高山を抽象論だとするのだが、現在の観点からすると高山の議論のメディウムスペシフィックな性格はよくわかる。議論の整理がめちゃくちゃめんどくさい領域だ。

客観説だと、歴史其物、山水其物、動物其物、みたいな、客体に美が内在しているという説になり、またそれゆえに歴史画、山水画、動物画なるものはその客観的な美を純化していくことを旨とする議論になり、つまりジャンル論になる。
これが、抽象絵画の登場および諸メディウムとの区別において絵画について考えるいわゆるメディウムスペシフィシティの議論以降で見ると厄介なものに感じられる。どちらが厄介なのかという話ではあるけど。

高山論で気になるのは、歴史画(というより物語画と言ったほうがよさそうだけど)が絵画という特性上事象の瞬間しか切り取ることができないと論じる点で、これはレッシングが根拠になっているからではあるんだけど、これだと幕末には菊池容斎が異時同図の絵を描いていることなんかは議論できなくなる。絵画の時空間は新古典主義的に組織されなければならない、ということが特に批判なく受け入れられている。菊地容斎の異時同図からは50年くらいか。

歴史画論争、主なところはあらかた読んだけど、高山樗牛の主張は聞くに値するが坪内逍遥、綱島梁川による批判はただの難癖ダル絡みでしょうもなかった。高山の主張は、絵画の材料としての歴史がどうあれ、絵画としてはその材料をどう構成するかにある、その構成の仕方はこうあるべしみたいなもので、けっこう具体論まで入り込んでいるけど、坪内、綱島は歴史そのものに美が存在するという主張を繰り返すだけで、それでは具体論にならない。
全部読み切ってもしょうもなさそうだなとおもいつつ最後まで読むが。
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いつの時代にも元の主張を誤解したうえでたいそうなクソリプを重ねる輩はいるもんなんだと感心している