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「一は全」って換喩的思考になるんだろうか。美術の歴史を示すような展示では、ある時代を「代表する」ような作物を配置することでその時代の全てを表象できるようにした、というようなキュレーション操作を「換喩的」だと誰かが書いていたのを読んでなるほどってなったんだけど。
換喩的操作って「代表する」ことの危うさが端的にあり、それは部分によって表された「全体」のほうから多様性を排除することでもあるし、代表をたてることによって「代弁する」というような危うさもあるかなぁとかふんわりしたことを考えた。
善の研究読んでいないけど。

自分には、北斎とかって浮世絵の歴史的展開のなかで発達経路を追うことは可能だけど、けっこう例外的な天才に見えているのだけど、北斎をもって「日本文化の代表」とするような思考操作にぎょっとすることがある。こういうのも、一つの部分をもって「日本」という「全体」を代表させるキュレーション操作なわけですよね。
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