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『略称・連続射殺魔』は、連続ピストル射殺魔の永山則夫が訪れた土地を辿りながら撮影することを通じて、いまや日本全体が「総東京化」して均質な風景に覆われていると告発した、のちの郊外論の先駆けと言い得るフィルムです。そこでは、各地の風景をカメラで切り取って編集し、80分ほどの時間に圧縮するという操作が行なわれています。要するに、風景=ショットをヘテロトピックに混在させる映画の方法と、ヘテロトピックな風景として語られる郊外的なイメージを同期させているわけですが、その場合、撮影対象となった場所自体に混在性が備わっているのではなく、映画というメディア自体の条件が混在性の印象をつくりあげているのではないかという疑問が生じますよね。

https://www.10plus1.jp/monthly/2017/08/issue-03.php

永山が引っ越しを繰り返し一つの場所に居着かないことは、場所から主体が疎外されている、それによってあらゆる場所は場所の固有性を欠いたものとしての「風景」として立ち現れる。けど、外からカメラをもった人間がきて短時間だけ滞在してその場所を見る「撮影」という行為が、典型的にそのような疎外を生みだす行為である。自己を疎外するものとしての「風景」が、撮影によって立ち現れるものなのか、永山の居着かなさによって現れるものなのか、映画からは区別をつけることができない。
みたいなことを思った。

ていうか、柄谷行人の「風景の発見」ってもっと後だと思うけど、安達/松田らの語る「風景」が主体の不安定さに由来する疎外の経験であるのに対して、柄谷の「風景」では主体の確立こそが「風景」の発見になっている。柄谷が知らなかったはずはないと思うけど、文脈を塗り替える意図はよくわからない。
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