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ひさしぶりに読んだけど、この記事のなにが駄目なのかいまではよくわかるな。
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/22558

ウポポイを見ていないんだけど、和人が反省の身振りを和人に対して見せていくっていう施設ではないとおもう。そういう施設はあればいいけど、それこそ「わたしはあなたの「アイヌ」ではない」という話にしかならないとおもわれる。この記事は、語る主体である「わたしたち」は和人だと言ってしまっている。

自分の記事も、この記事の延長で読まれた気がするし、実際似ているところはあるんだけど、自分がマティス展で気になったところって語りのスタイルの自閉性なんだよな。
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たとえば、こういう感想があって、べつにわかるんだけど、マティスが自身の絵や彫刻を純粋な造形物だと考えていたわけではなく、でもわれわれはその造形性に着目する。これは、われわれの現在の価値観・ものの見方をマティスに投影しているし、そう見えるように展示も仕組まれている。それって、鑑賞者が事前に抱えている価値観を、キュレーションが再認するという自閉的な装置が成立してしまっているわけで、実りがないとおもう。
https://twitter.com/ligne_couleur/status/1661728640764354562

マティス自身は自身の絵や彫刻を純粋な造形物だと見做していなかっただろうけど、それでも、彼の同時代からそのような可能性を感じとった人は多かっただろうし、「わたしは女を描いているのではない、絵を描いているのだ」というような発言も含めて、抽象化され、どこにも基盤を持たないような造形性という地平を切り開いたのはマティスだとおもわれ(それまでは自然とか過去の絵画とかを基盤にしていると信じていた)、このような抽象的な地平こそ、アフリカやオセアニアの彫刻を造形性の観点から読解し、アプロプリエートすることを可能にしたものだとおもわれる。