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BT。
私はそもそもの発端らしい週刊読書人の対談というのを読んでいないのですが、ここで(読書人のアカウントが挙げている画像で読める範囲では)水上さんが書いていらっしゃることにはまったく異論はないし、「人文系編集者や研究者、院生が読者に多く存在するであろうメディアで差別的な言論が野放しになっていることや、そしてあまりよく知らないままその言説を鵜呑みにしてしまう人が出てくることを防ぐ」と水上さんがご自分で書いていらっしゃる原稿の目的とは正確に合致していると思う。

なので、水上さんの文章への不満とか批判では勿論なく、「この事態を野放しに出来ない」と考えて動いてきた人々に対する批判とかでも全くなく、以下、完全に個人的な感情の表明?愚痴?です。お気持ちです、お気持ち。

→ 不満とか批判とかではないと言いつつ水上さんの文章をちょっとお借りしますが、これは水上さんが書いていることに異議があるからではなくて、むしろとてもクリアに書いていらっしゃってわかりやすいからです。

で、水上さんは共有すべき前提が二つあるというところか話を始める。「トランスは現実に存在し」「その人権は守られるべきである」の二点で、これは非常に重要な点だと思うし、ここを前提とせずに話をすることは出来ない、というのは私もその通りだと思う。

その上で、「では、トラスジェンダーとはどのような人を指すのか」と議論は進み、「もしもあなたが「トランスジェンダー」を巡る議論に関心を持つなら、初めにすべきことは、その複雑で多様な現実を知ること」だとされる。多くの人は「知識と表象の不足によって、トランスの人をひとりの人間として受け止める能力さえ損なわれ」ているのだから、と。

で、大枠の現状理解として私は賛成だし、何よりも今のこの段階で(しかも問題のある差別的な記事が掲載されてそれに対して異論を出すという立て付けがあれば尚更)は、この組み立てが政治的判断として正しい、とも思う。

思うんだけれども。ここからただの愚痴なんですけど。

最初に提示された二点(「トランスは現在に存在し、その人権は守られるべき」)は、「トランスの複雑で多様な現実を知」らないと、共有できないのだろうか、と私はどうしても思ってしまう。

「現実」を知ることが先にあるべきなのだろうか。それが現実的に有効な方法であるのだろうというのは了解するのだけれど、でもある特定の人々が存在していますよということ、その人たちには当然人権がありますよということを、その人たちの「複雑で多様な現実」を知らなければ、私たちは了承できないんだろうか。

本当に?

ある特定の人々に関する「知識と表象が不足」していたら、その集団に属する人を「ひとりの人間として受け止める能力さえ損なわれ」てしまうのだろうか?

いや、損なわれているように見える人が多いのは事実なのですが、それって「知識と表象の不足」で免罪されるものなのだろうか?

私たちは、自分がその「複雑で多様な」生についてあらかじめある程度知識を持っている相手でなければ、その相手を人権の主体と認めることができないんだろうか?

それって絶望的じゃない?

いや実際に絶望的な状況なのだろうと思います。
でもなんというか、だからそれって絶望的ですよね?

とりあえず、「相手について〈知〉らなければ相手を人権の主体と認められない」「特定の人々に関する知識と表象の不足のために、その相手を人間として認識することができない」という人々が社会(のもしかしたら多数派を)を構成しているというそのことの、絶望的なありえなさも、私は嘆き悲しみたいのです。

勿論、2018年当時から矢面に立って「トランスに関する知識の普及」に尽力してきたアクティビストの人たちからみたら、そんなところで嘆いたり悲しんだりしてるなんて良いご身分だねという感じだろうなとは思います。

実際にそうなのだろうし、だから「知識の普及」に尽力してきたアクティビストの人たちのやってきたことが違うとか、勿論今回の水上さんの戦略が違うとか、そういうことではないです。

ただ、その裏で、でもやっぱりこの戦略、こういう議論の立て方をせざるを得ない状況というのは、本当に根本的に胸の底が抜けるくらい悲しいことだよね、と私は思います。

そんな甘ったるいことを言っている場合じゃないんだと思う。思うけれども、それでもやはりどこかで、「知ってもらわなくてもいいしわかってもらう必要もない、そもそも自分に〈知る〉権利があると思っているらしいところからして気に食わない、そんなのは全部どうでも良いから、奪っていった人権を、生存の権利を、黙ってとっとと返せ」と言いたいよね、言えたら良いのにね、とも思う。

私たちが知るべきなのは、あるいは知らしめるべきなのは、複雑で多様なマイノリティの現実なのだろうか。
例えば私たちは自分と接点のない職業についている人々の複雑で多様な現実なんて一切知らないけれども(例えば株のトレーダーとかどういう経緯で誰がなるんだろう?)、その人たちが存在していることはわかるし、人権があることも普通は了承している。
なぜ特定のマイノリティについてだけ、その「現実」を知らなければ存在を了承することも人権があると認めることもできない、という話になるのだろう?

なぜ特定の人々については、「差別解消」の前に、「理解増進」が必要なのだろう?

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あと私は多分、特定の集団についての知識や表象が十分にあれば、特定の集団の複雑で多様な現実が知られれば、その集団を構成する人々は人間と認められ、人権を認められるようになるだろう、とは必ずしも思っていないです。

勿論そういう回路で「認められる」ようになる人もいるだろうし、個人的には「あんた何それ」と思うけれど、でもそれでも現時点で少しでも味方を増やすのは大事というのは、よくわかる。

ただ、歴史を振り返っても、何世代にも渡って同じ地域で暮らしてきた隣人が隣人を殺したりするんですよ。マイノリティに属する人々の複雑で多様な現実を見ていたはずの人が、それに積極的に目を瞑って、マイノリティ集団への攻撃に加担していくんですよ。

なんとなく、「知ってもらう」だけではやはり圧倒的に危険なのではないか、という気がして仕方ないです。
それより強いのはおそらく、水上さんの最初の「前提」に戻って、「この人々は存在しており、人権を有している」に依拠することじゃないかと思いたいのですが、でもそれもただの願望に過ぎないよねというのはわかります。

愚痴なので特にまとまらないんですが。

@akishmz 清水さんの書いている問題意識に通じる話題かどうかわからないんですけど。
わたしは栗原さんとは2013年ごろから面識がありますが(会ったのはたしか一度ですけど)、わたしが2019年から文芸誌で書いてきたことはさておき、榎本櫻湖さんというトランスを公表している詩人の方が文芸誌で書いてきたことは栗原さんは把握しているので、「実態を知ってる」としても通用しないという点はその通りと思いますし、だからこそ、個人的な実感レベルの話ですが、「わかってもらうことで人権意識を持ってもらう(“もらう”×2)」という戦略はあやういというか無理というか、と思ってます。

(蛇足ですが、好意的に解釈して、わたしはともかく少なくとも榎本さんについては、氏がバラマキ続けてる陰謀論的な差別言説や「TRA」「トランスジェンダリズム」とは同じものと見ていないということなのかもですが、いずれにせよ、栗原・田中両氏や山形浩生のようなあのへんの「人文・社会科学」系の一般向け仕事をしてきた業界人の傾向が、宗教保守・極右の戦略からの影響をどう受けてるかは気になってます)

@szk3nr そうですね。私も、アカデミックな女性学/ジェンダー論業界については、同じような感覚を持っています。少なくとも2000年代のお茶大COEの時点でトランスの話はしていたし、実際にトランスの人たちが研究会などにも参加してたよね?と思いますし、ジェンダー論や女性学で大学教員をある程度長い間していればその間一人のトランス学生にも出会わないことの方がむしろ珍しいので、少なくとも「トランスの人たちが学生だの研究者だのという形で同じコミュニティに存在していることは知ってる」はず。ある意味ではその層は人権や尊厳、人格の尊重という話にも馴染みはあるはずだった。それでもまったく歯止めが効かなかったのは何故だろうか、じゃあどうすれば良かったのか、というのは、本当に強い後悔の念と共に考えています。