こういうケースで私は外延的に性質を追究する傾向があって、たとえば「私は植物に知性がある/ないと思う、なぜならhogeのような感覚/類似事例があるからだ。故に知性があるという状態とはfugaという性質を満たしていると考えるのが自然であると主張したい」みたいなことを考える。
- replies
- 1
- announces
- 1
- likes
- 0
ただこれは「strict で exact な定義をできないことを前提として共有したうえで、議論の参加者がどこまでを知性の可能性があるとして同意する/認識するか、領域を狭めたり広めたりする」ということで、言ってみれば最初から “正解” を諦めた撤退戦の次善策ではあるよね。それが納得いかないという人もいるのだろうとは思う。
別の言い方をすると、ある主張について、そうであると考える理由とそうでないと考える理由を集めて、自分がどれに説得力を感じるかを確認することで、自分の価値観において重点が置かれているのがどこなのかを把握するという内的な模索こそが、この形での議論の本質だと思うのよね
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108489739031804728
このスレッドも近い話かもしれない