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「300体を生体解剖」細菌戦部隊の証言 市の施設で展示見送り:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASR8H748SR87OXIE02Y.html?ptoken=01H7ZCY4GDCMA8XWR44C5FZY40 #

8月17日 23:45までプレゼント記事。
辻田真佐憲氏のコメントプラスは、博物館や図書館におけるスタッフの専門性と独立性と、市民の意見との関係をどう捉えるのか、という点について、米国における宗教保守と同様の立場(独立した専門性よりも、納税者の意思が優先する)に結果的になってしまっていて、びっくりした。
もちろん、専門性と社会との関係は無視できないのだけれど、このロジックだけでは、研究も含めて、税金で支援される領域が全て、声の大きな納税者の意見に左右されることになり、むしろ公共性が損なわれるのでは。

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@tsysoba 加害の歴史を隠蔽すれば大きくなれるとは思えないよね。「加害の事実だけを誇張しすぎるのは日本のためにならない。子どもや孫に小さくなって生きてほしくない」なんていうのにはそういいたくなる。痛いものを直視しないと何もできない。
私は、愚劣きわまる右翼が嫌いだ。

@tsysoba 辻田の理屈は一部の右翼にペコペコするだけですね。これでは公共性はむしろ破壊されますね。こんなんが近現代史研究者と名乗るとは。

何やら結構BTしていただいたこともあり、補足です。
今回の辻田氏のコメントは、公共機関の公共性の寄って立つところをどう考えるか、という点ではどうかとは思いましたが、一方で、歴史を巡る議論が「正しさ」とは別の水準で行われるようになっている、という視点が必要なのはそれはそうかな、とも思ったりしています。

ある歴史的事件や事象を、どのように記憶、記念するのか、ということが政治的な争点になっていて、歴史的事実をいくら積み重ねても、決着はつかない状況になっている、という認識は必要でしょう(むしろ、追悼文を出すか出さないかが重要だったりするわけで)。

個人的には、大きな歴史的事件を大きい物語によって記念するのではなく、そこに関わった、小さな、個人単位の物語によって、語り直していく、という取組みが必要なのではないか、というのが、今のところの感想だったりします。そのために、過去に語られ、綴られた言葉や、様々な残されたモノや場所が重要で、図書館や博物館や文書館が果たすべき役割もあるのではないか、と考えているところです。