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世間の人、ちょっとフーコーのパノプティコンを誤解してると思う。その流れで、たとえば「ツイッターはみんなを監視するパノプティコン」とか言ったりする。でもそれは違う。まずパノプティコンは全員を常時監視するシステムではないし、フーコーが言いたかったのは誰もが監視される社会の問題点ではない。あの話の焦点は自己規制・自己監視で、しかもそれを「主体性」だと考えてしまうことのほうだ。

まず、フーコーが想定していたのはネットとかコンピューターとかがない時代だ。そういう時代に、人に規則きっちりと守らせるために、社会は何を発明したか。

たとえば、独房に大量の囚人がいて、「囚人は寝るとき以外は立っていなければならない」という規則がある。どう守らせるのか。全ての独房に看守を一人づつ張り付けるのは一つの手だ。だが、これだと人件費が高過ぎて実用にならない。

全ての部屋に小型のビデオカメラを取り付けるというようなことも考えられる。だが、これも解決にはならない。なぜなら、やはり常時モニタ―を見ている人が必要になるからだ。徹底的にやるなら囚人と同じ数の監視員が要る。人件費で破綻する。

こういう問題を回避するためにどうするか。フーコーが見つけた、リアルの制度が考え出した答えはこうだ。

1.対象者を短い時間だけ監視する
2.対象者にはいつ監視されるかわからないようにしておく

2.が重要なポイントだ。囚人とか工場の工員とかが規則に従わない。サボる。10回のうち9回は何もない。だけど、残りの1回では突然注意されて罰を受ける。その1回がいつなのかは決して分からない。罰が十分に重ければ、監視される人は常に気を抜かないようになる。
そしてこのとき、1.対象者一人当たりの監視時間は短いから(たとえば)一人で500人とかを監視できる。

この1と2ができるように設計されたものがパノプティコンだ。フーコーはこうしたものが17世紀以降、フランスの社会の様々な場所にデプロイされたことを発見したのだ。

パノプティコンの話で割とよく例に出される「1984年」のテレスクリーンも、この原理で動いている。主人公はスクリーンの前で体操をする。サボる。最初は何も起こらない。だけど、ある時突然、名指しで注意される。びくっとして、以後サボらないようになる。

少し考えると、学校のテストなども同方式

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であることが分かる。教師は生徒に学習範囲全てを勉強させたい。だけど、全部を確かめる時間はない。そこで一部だけをテストに出す。だけど、生徒にはどこが出題されるかは分からない。結果として、全部勉強することになる。

さて、ここに2番目の論点がある。パノプティコンによる部分的監視が十分に機能すると、監視対象者は罰を逃れるために、サボろうとする自分を自分で押さえつけるようになる。こうなると、監視の頻度もぐっと落として良くなる。非常に効率的だ。そして、これこそが近代的なシステムの目的である、というのがフーコーの結論だった。

人の心に、自分を監視し、自分を追い立てるパーツを埋め込むこと。この仕掛けのことをフーコーは「主体」「主体化」と呼んだ。これは皮肉のように聞こえるが、実のところ比喩でもなんでもない。フーコーは「主体性を確立する」「主体的に行動する」などのことに、「自らシステムの要求に従い、自分が規則から外れないように監視し強制すること」以外の意味はない、と言ったのだった。これが近代的な監視と強制のシステムなのだ。

このように考えると、我々が、いま、パノプティコンの下で生きて「いない」こともよく分かるだろう。

つまり、音声・画像・テキスト処理システムとデータベースのおかげで、近代初期には不可能だった常時・全員監視はもはや可能になっている。規則違反はアプリが探知するから、人件費を気にする必要はない。

逆に言うとこういうことだ。もはや、現代の社会では人に自分を監視させる必要はない。主体性を確立させる必要もない。人の内面に立ち入る必要などはもはやないのだ、と。

われわれの社会が表面的に自由に見え、過度の干渉などが止められたように見え、しかしかつてよりもはるかに窮屈である理由はここにある。そしてまたそれは「反抗するとして、何に、どうやって反抗するのか」という課題を我々に突き付けてもいる。