「「新しい社会運動」とは何か?それは八〇年代にヨーロッパに広がった社会運動の新しい形態を指している」
「その特徴は、特定の原理や理想、絶対化された目標をもたないこと、しなやかでゆるやかな組織化、ネットワークによって展開していくこと、などの点において、「党派」や「組合」指導型、あるいはいわゆる「マルクス主義」に依拠した運動と区別される」
「六八年の学生叛乱や文化的な運動は、この運動に色々な影響を与えているが、こと暴力的な闘争に対しては様々な反省をふまえていると見てよい。新しい社会運動は、かりに法に違反したり、市民的な秩序に反するような活動をする場合にも、その暴力は象徴的な次元のものにとどまるのである(ドイツ語圏では、ハーバーマスらがこうした運動を「市民的不服従」という概念でおさえている)。新しい社会運動がしばしば、身体性や情動的なつながりをその運動のプロセスにおいて重視することにはそうした理由があるのである。スピリチュアリズムやサブカルチャーと、社会運動やアクティヴィズムが結びつくのもこの点においてである」
(上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』2000年)
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2010年代のTwitterは、ゆるやかなネットワーク形成に寄与したところもあるけど、党派性や原理主義化を再び招いてしまったところもあるなあ。ある時期以降、個々人がTwitterを使ってネットワーク化していくというより、Twitterによって形成されるネットワーク性に、個々が縛られるような側面が肥大化していってしまったというか。
SNSが持つ、人間間の距離感覚を良くも悪くも喪失させるような性質が、そのことにもかなり作用していると思う。自意識同士が距離感無く癒着しあって、自他の境界が見えづらくなるような環境。個人的であることがどんどん難しくなる。
Twitterは、例えばスピードが求められる緊急行動的なネットワーク形成には、とても便利で効果的なサービスだったと思う。ただ、持続的な共同性をそこで維持するための環境としては、ユーザー側が管理人に対して明け渡してしまうものが大き過ぎたんだろうな。
一般市民によるアーキテクチャへの介入可能性が目減りし続けている問題は、ウェブの外側まで含めていつの間にかヌルっと全面化しつつあって、例えばIDパスや電子マネーに対しても、私たちはもう抵抗感をほぼ失いつつある。このまま行くと、ひたすら「象徴的な次元」だけで怒りや反抗を無限に反復することになりそうな……。