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覚えのあるようなないような論法だなと思ったら、あれか。「技術は中立ではありえない」と似たものを感じる (具体的にどうというのはちょっと難しい単なる感覚だが)

技術そのものは (発生や利用の後押しなどの社会的文脈から切り離して) あくまでニュートラルに見つめることはできるんだけど、現実世界にそれを持ち込む以上は文脈から切り離された存在であることは実用上ありえなくて、ゆえに社会的な観点からの非難を免れない場合が多い

批評というのも、それそのものは純粋にコンテンツに対する考察たりうるかもしれないけど、それを読み手に向けて放流した時点で社会の状況や発表者の名前という文脈が紐付いてしまうことは免れないし、ゆえに (意図に反して) 批判として認められてしまうことはありうる

核融合の理論それ自体は善い利用も悪い利用もできるだろうしそういう意味で中立かもしれないけど、その成り立ちを考えると中立な存在として産まれ育まれてきたわけではないし、そういう意味では中立な存在ではない (少なくとも、なかった) ということもできる

“純粋な内容” に対する評価と、それが発生・発表された時点での文脈における位置付けというメタなレイヤーがあるという認識が大事なのかな

どちらかというと「文脈から切り離された “純粋な内容”」という概念の成立を認めるか否かの違いなのか。そうかも。

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本当に完全に無関係な存在についてはいかなる形での評価も無意味だし、評価が意味を持つという時点で我々に何らかの影響を与える存在として評価しているのだから、社会や人間に対して与える効果を無視することなど根本的に無意味で不可能だ、というのも……まあ一理あるとは思う。手放しに賛同できるかというとちょっとわからないけど

どこに抵抗感があるかというのは自分でも微妙だけど、「あらゆる物事には本質的に意義があって、我々はあらゆる文脈でそれと向き合う必要がある」という生真面目さというか堅苦しさ、あるいは意識高さみたいなのが苦手なのかも。

雑に言ってしまえば、 “意義ある社会” から自由になって思考したい、意義から開放されて遊びたい、ということなんだろうけど。

現実にはあらゆる物事は連関していて、いかなるプライベートの事柄も義務や労働に (場合によっては望ましくない) 影響を及ぼすわけだけど、そういうところをちゃんと建前フィルタで無視したうえで「労働への影響がそれなりに低ければ切り離されたものと見做します」みたいな慣行がある。
そういうのを批評とか思考空間にも当て嵌めてみると、建前と実際的な影響力に次第で敢えて “意義ある社会” から解き放つという慣行もやっぱりちゃんとあるんじゃないかという気がするんだよなぁ

その慣行のもとで考えるなら、やっぱり批評と批判は別物 (として扱うことが場合によっては許されている) としてもいいのかもしれない。

問題は、批評は本人の意図に関係なく影響力が大きくなってしまう場合があり、その場合にどうするか、というところ?

べつにどのような影響があろうとバランスをとりあうのが議論と社会ってやつなんじゃないのか、というのは思うんだけど、同時に社会というのは (コスパのために) タブーなる概念で武装しており、思考実験的な擁護すら許されない場合がままあるというのが事を面倒にしている