村上由鶴『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書、2023年)読んでいて、「誰のもの?」っつったら「みんなのもの」っていうんだけど、ベル・フックスを参照したこの「みんな」という言葉が、とっつきづらいアートの制度論的な定義(なぜ「これが好き」や「うつくしい」じゃあ駄目で、作品が作品であるためにはアート・ワールドの承認が必要になるのか)をわかりやすく説明したうえで、その制度自体が抱える問題をフェミニズムを下敷きに考えていきましょう、みたいな構成になっていて、すごい上手いな……と思った。
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厳密には、「みんなのもの」であるというよりも、「みんなのものであろうとしている」というふうに言っていて、そう言い表すことで「でも実際はそうなってなくね?」という疑問に答えようとしているのがいいなと思った
「私はこう感じる」だけだと「みんなのもの」にはならないばかりか、金や権力のある「私」が幅を利かせるだけになってしまう。一応理念上はそれじゃ駄目だっていうのでアートは制度的なまなざしで読むものだ、となっているのだが、その制度自体が歪んでいるならどうしたらいいだろう。そこでフェミニズムの観点を借りてみましょう。ってスマートだなと思うんだよな。とか感心しててもしょうがないのだが…(新書なのでKindle読み上げですきま時間に読んでいく)
しかし公共性のアポリアというか、属人的な判断からなるたけ中立な、近代的な公共性を実現しようとすると、どんどんエリート主義だったり、閉鎖的・権威主義的になってしまって、そういうことを考えていくとアナキズムに近代国家に替わる公共のビジョンを託そうというモチベはマジでわかる、とかぐるぐる目になって早口で申しております