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京都文化博物館、「シュルレアリスムと日本」展に併せて、「シュルレアリスムと京都」展が開催されています。普段は祇園祭関係の展示が行なわれるスペースを使って、京都で主に活動した画家たちの1930〜50年代の作品や関連資料が並べられていました。

日本のシュルレアリスム受容史において画期的だった、瀧口修造らの企画による
海外超現実主義作品展が京都に巡回したのは1937年のこと(ちなみに同年には福沢一郎(1892〜1982)が『シュールレアリズム』を刊行している)。それに接した北脇昇(1901〜51)や小牧源太郎(1906〜89)、今井憲一(1907〜88)、伊藤久三郎(1906〜77)といった画家たちが遅ればせながらシュルレアリスムを吸収して画業を展開させていくわけですが、京都において特徴的なのは、彼らの周辺における知的状況のために、シュルレアリスムの運動体としての側面がさらに前面に出ていたことであると、さしあたっては言えるでしょう。京都では当時の京都帝国大学の若手を中心に自由主義者と非共産党系マルクス主義者との協働が見られていたそうですが──1937年に(そのような協働の成果とも言える)「世界文化」誌の同人たちが思想犯として大規模に摘発された事件が人民戦線事件と呼ばれたことが、京都の知的状況を逆説的かつ端的に象徴している──、そのような知的状況の急変の中で彼らが画業を展開していったことが「シュルレアリスムと日本」展における同時期の出展作以上に生々しく読み取れる作品が出ていたのでした。

かような京都における知的状況を横目に見た上で、「シュルレアリスムと京都」展では上記の画家たちの戦後の仕事にもスポットライトを当てていたことにも注目すべきでしょう。北脇は既に戦前からモダンに再解釈された八卦という謎のモティーフを多く描くようになっていましたが、さらに小牧は戦中から仏画のような画風に移行し、戦後には仏教に限らない民俗学的なモティーフが頻出するようになる。これらの例は日本におけるシュルレアリスム/シュルレアリストをめぐる日本回帰の問題について考えることを見る側に迫っています──戦前のフランスにおいて画家や思想家(バタイユとか)に伍して活動していた岡本太郎(1911〜96)が、戦後は画業の一方で縄文土器を顕揚したり東北や沖縄の祭りを撮影したりしたことが、かかる日本回帰の例として俎上に乗せられるものですが、ことは岡本だけの問題ではないわけです。ばかりか北脇や小牧のかかるモティーフの変遷は、それが戦争直前〜戦中になされたこともあり、日本独自の「転向」というモーメントと合わせて岡本以上に日本におけるシュルレアリスム/シュルレアリストが内在的に抱えていた盲点をヴィヴィッドに晒しているのかもしれません。

京都という場に局限することで見えてくる問題系はなかなか厄介であり、その厄介さを絵画と資料を通してしっかりと見せていたことで、この展覧会は「シュルレアリスムと日本」展の良き補遺となっていたのでした。こちらはその「シュルレアリスムと日本」展終了後もしばらく続き、2月18日まで

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