ポスト・サブカル焼け跡派のあたくしとしても、いろいろ思うところがあるでござる。
ただなんというか、VVが提案していた「サブカル」って、世代によっても受け止められ方がたぶんかなり違うような。ぼくは84年生まれで、ゼロ年代半ばぐらいに一番VVに行ってたけど、当時VV的「サブカル」って既に半笑いな感じで受け止められていたというか。本当にハードコアな人は行かない店というか。自分は当時「アンチ選民主義!汎用化されたチープ・サブカルがむしろ大切!」と思ってたので、VV的な安っぽさが好きだったんだけど。
「「サブカル」という言葉の輪郭が曖昧になるにつれて、その空間の演出も曖昧になってしまう」というのはたしかにそうだと思うけど、「ヴィレヴァンにはどことなく「選民意識」みたいなものが流れている」というのは、自分の実感・体感とは結構ズレるなあ……。
ヴィレヴァンが知らぬ間にマズいことになってた 「遊べる本屋」はなぜ魅力を失ってしまったのか
谷頭 和希
2024/01/18
https://toyokeizai.net/articles/-/728491
「B級である矜持を持とう」的なアイロニカルな感覚・戦略はゼロ年代VVの店頭には既に感じられなかったし、あの頃VVに通っていた若者たちは、体系的知識の圧や選民意識みたいなものをさほど気にしていなかったように思う。菊地敬一はハイ・カルチャーに対してのサブ・カルチャー(キャンプ、バッドテイストなもの含む)を志向していたんだと思うけど、そういう対立構造自体が、ゼロ年代には既に理解しづらいものになっていた。例えば80年代の戸川純と、ゼロ年代の椎名林檎を見比べるだけでも見えてくるものがある。アイロニーではなく、順接というか、ストレートに生産され・販売され・消費されるようになっていった。
で、自分はそういう「アイロニーを理解できなくなったゼロ年代的サブカル」が、その危うさ含め結構好きだったんですね。そこにある無邪気な感覚が、選民意識とは違う何かを育む可能性を持っているように思えていた。ただ、この無邪気さがいつかベタな政治に遭遇したとき、洒落にならなくなるだろうとも思ってたけど。そして椎名林檎のその後の軌跡が、その具体例のひとつになったんだけど。
「時代が流れ、SNSを通じて人々の好みが多様化した現在、もはや「メイン」や「A級」という考え方自体が、ほぼ消滅してしまった」=情報環境の変化でメイン・サブみたいな構造が成立し難くなった、というのはたしかにそうなんだけど、そこで「B級である矜持を持とう」みたいな70~80年代サブカルチャー的アイロニーが無効化されていったことこそが重要という気がする。押しつけがましい選民意識と言っても、しかしそこで何故「B級」が志向されたのかが伝わらなくなっていったというか。本当の選民意識なら、別にハイカルチャーで良かったわけでね。問題は「多様化」という位相だけにあるわけではない。
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ハイカルチャーともコンビニエンスストアとも違う「B級」、というアイロニカルな「サブカル」戦略は、90年代終わりごろには既に、センス・エリート的な選民意識、硬直しタコツボ化したイデオロギーになってしまっていたと思う。ゼロ年代VVの安っぽさ・俗っぽさはむしろ、そうした硬直化を図らずも回避できていた=図らずも「B級」性を維持できてしまっていたというのが(笑)、自分の実感。そしてゼロ年代というのは、センス・エリート的サブカルチャーが衰弱していった時期でもあった(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』は、そういう風景を描写した本としても読める)。で、2010年代にはしかし、VV的「B級」もいよいよ耐用年数が切れた、ということなんだろう。たぶん。