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galerie 16では「70年代再考 版画・写真表現の波紋」展が開催中ですが、

その関連企画として、トークイベント「70年代という時代」が昨夜開催されました。ファシリテーターは展覧会の企画者でもある坂上しのぶ女史、パネリストは中島一平(1948〜)、木村秀樹(1948〜)、長野五郎(1950〜)の各氏。

1970年代の美術については、それ以前に自明化されていた〈制作〉自体が全面的な懐疑にさらされ、「つくらないこと」が新しく大きな潮流となっていった時代であるとされることが多い──で、かかる転換点に位置するのが「20世紀唯一の世界革命」((C)ウォーラーステイン)としての
「68年革命」という出来事である、と目されることになる──ものですが、この「70年代再考」展や昨夜のトークショーにおいては、そのような史観によって往々にして埋もれがちな個々のアーティストの個々のリアリティから、改めてかかる史観を考え直すことが目指されていたと言えるでしょう。ことにここでは、パネリスト各氏の母校である京都市立芸術大学との関係から改めて各氏のリアリティを紡ぎ直すことが、トークの端々に見え隠れしていたのでした。

もう少し細かく見てみましょう。中島氏は1967年に入学し、木村氏は一浪して1968年に入学、長野氏は1969年に入学しており、ちょうど一年違いで市芸の門をくぐった形になるわけですが、そのことが各氏の回顧談に与えた影響はことのほか大きいことが、聴講していても伝わることしきり。他の大学同様、市芸でも学生運動が大きなうねりとなり、中島氏はそんな中で学生運動を率いてキャンパスの封鎖を敢行するなどの大立ち回りを演じていましたが、市芸が特異なのは、中島氏ら学生運動側の意見をそれなりに受け入れる形でカリキュラム改革が実施されたこと。この「改革」によって、洋画科に構想設計教室が新設(のちに構想設計専攻に格上げされて現存)されたり、(学生たちが自主的に定めた)テーマが学習の中心になったりするなど、〈制作〉をメディウムやディシプリンに従属させないカリキュラムが新たに組まれることになったそうで。してみると、「改革」を領導した中島氏、「改革」によって学業の前半と後半でエラい変容を被った木村氏、「改革」によって〈制作〉をメディウムやディシプリンに従属させない地平から思考/試行することが前世代に較べて比較的容易にできた長野氏という具合に、各氏の大学における個々のリアリティ形成には大きな開きがあるわけで、それが各氏の「70年代美術」にも色濃い影響を残していることが見えてきます。

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この「70年代再考」展では、

というか展覧会に際して刊行された坂上女史の著作『70年代再考』では、木村秀樹氏が大きな位置を占めていることに注目する必要があるでしょう。実際、今回のトークイベントでも、本日開催の「現代美術における写真」(パネリスト:木村秀樹氏、木村浩氏、石原友明氏)でもパネリストに名を連ねており、つまり木村氏だけが二日間連続して登壇しているわけでして、そのことからも坂上女史のキュレーションにおける木村氏の、もしくは木村氏が長年制作し続けていた版画というジャンルの重要性があからさまになっているわけですが、さておき昨夜のトークにおける木村氏は、市芸に入った途端に自身を襲ったアイデンティティクライシスを「68年革命」前後の日本の近現代美術全体のそれとパラレルに語るという態度に終始していました。木村氏いわく在学中は学生運動が急速に終息していったのを横目に見ながらコラージュばかり作っていたそうですが、それは前時代の日本近現代美術における「反芸術」ムーブメントとその主導者(針生一郎、中原佑介、東野芳明という、いわゆる御三家)への失望──千円札裁判で彼らが揃って「芸術」をタテに被告の赤瀬川原平に対する無罪を訴えたことが決め手となったという──と、もの派によって顕著となった制作における〈物質〉と〈概念〉の乖離/解離への抵抗として語られることになる、といった具合に。で、そんな状態から版画教室で吉原英雄(1931〜2007)と井田照一(1941〜2006)に師事するようになり、1974年《えんぴつ》で第9回東京国際版画ビエンナーレで受賞、以後は版画家として地歩を築いていく。

──木村氏の70年代は以上のような具合に推移していくのですが、かような推移を版画と結びつけて語っていたところに、氏の特異性があると言えるかもしれません。「
版画は(その時代)芸術でも反芸術でもなかった」とは井田照一の言ですが、かような「芸術でも反芸術でもなかった」ものの両義性に70年第美術の可能性を見出すという木村氏の態度は、70年代を単純に「つくらないこと」の時代とみなす従前の史観に対する一定の修正を促すものとしてあると言えるでしょう。一方、中島氏の場合は市芸卒業後いったん美術から離れ、造園業者で働くという経験を経て再び絵画に帰っていくわけですが、かような遍歴を経ることで絵画を「思考と身体(性)とを一致させる行為」とみなし、必然的に時間がかかる行為であるとすることで、やはりここでも「つくらないこと」の時代という70年代観に修正を迫っていることに注目する必要があるでしょう。やはり作品は「つくられていた」のである。